(敬称略)
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西暦 |
和暦 | 月日 | 外国での出来事(日本灯台社とは別系統の出来事) | 日本での出来事 | 中国、朝鮮半島、台湾での出来事 | 一般的な出来事 |
明治 | ||||||
1873 | 6 | |||||
日本政府、キリスト教禁制を解く | ||||||
1879 | 12 | |||||
7月1日 | チャールズ・テイズ・ラッセル(Charles Taze Russell)が英文WATCHTOWER誌創刊 | |||||
1882 | 15 | |||||
10月23日 | 神田繁太郎は、神戸市兵庫の材木問屋の次男として生まれる | |||||
1884 | 17 | |||||
Watch Tower Societyがペンシルバニア州で法人認可 | ||||||
7月25日 | モード・エモンズが誕生 | |||||
1887 | 20 | |||||
明石静栄は、和歌山県新宮で生まれる | 日本で最初の完訳聖書発行 | |||||
1889 | 22 | |||||
7月1日 | 明石順三は、滋賀県坂田郡で医師、宣雄(医師名:道貞)の三男として生まれる | |||||
1900 | 33 | |||||
神田繁太郎、ウィンスコンシン州立大学に留学 | 神田繁太郎、同志社大学を中退 | |||||
1904 | 37 | |||||
赤松今朝松が生まれる | ||||||
1906 | 36 | |||||
神田繁太郎、モード・エモンズと結婚 | 内村鑑三、『万朝報』に日露戦争に触れ、戦争廃止論を掲載 | |||||
●1907 | 40 | |||||
アメリカの両院は日本人の移民制限法案を可決。排日運動も起こり、人種差別が起こっている | ||||||
明石順三は渡米を志して上京 | ||||||
7月15日 | 同日付のThe WATCH TOWER誌に、日本での活動の支援を要請する手紙が転載 | |||||
1908 | 41 | |||||
2月 | 明石順三(当時18歳)は日本郵船の丹後丸で日本出発 | |||||
春 | 明石順三はカリフォルニア州サンフランシスコに到着 | |||||
1909 | 42 | |||||
神田繁太郎、妻のモードを伴って帰国 | ||||||
1911 | 44 | |||||
特別高等警察が大阪府に設置。思想犯罪を取り締まることを目的とする | ||||||
●1911~1912 | 44~45 | |||||
12月30日~1月4日 | ラッセルらが訪日 | |||||
大正 | ||||||
●1913 | 2 | |||||
2月4日 |
『世々に渉る神の経綸』(The Divine Plan of the Ages)の日本語版の発行 |
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●1914 | 3 | |||||
明石順三はサンフランシスコの邦字新聞、『羅府新報』のサンディエゴ支社社会部記者になる。後に『日米新聞』の社会部デスクに移籍。 | このころ、神田繁太郎の父、直五郎が組合派クリスチャンと協力して須磨教会を設置(神戸市須磨千森町)。明石教会の森山寅之助牧師に兼任を依頼し、繁太郎は日曜学校の校長をする | |||||
3月18日 |
村本一生は熊本県阿蘇郡永水村(現在の阿蘇町赤水)の医師の長男として生まれる |
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『世々に渉る神の経綸』(The Divine Plan of the Ages)の朝鮮語版の発行(発行:横浜。代表:ホリスター) | ||||||
8月15日 | 同日付WATCHTOWER誌に朝鮮の姜範植(カン・ボムシク)の投書が掲載される | |||||
10月2日 | Watch Tower Societyの会長ラッセルが提唱した「異邦人の時の終わり」の日付 | |||||
1915,1916頃 | 4,5頃 | |||||
神田繁太郎は従兄弟の井上隣太郎と共に神戸本町の古書店で『世々に渉る神の経綸』を購入 | ||||||
1915 | 5 | |||||
この年から、朝鮮をイギリス出身のコルポーター、ファニー・L・マッケンジーが周期的に訪問するようになる | ||||||
1916 | 5 | |||||
5月 | イギリスの信者が兵役拒否をしたことがWatch Tower誌に掲載される | |||||
10月 | ラッセルが死去 | |||||
1917 | 6 | |||||
この頃、神田繁太郎は、機関紙Watch Tower購読し始める | ||||||
1月 | ジョセフ・フランクリン・ラザフォード(Joseph Franklin Rutherford)がWatch Tower Societyの2代目の会長 | |||||
明石真人が生まれる | 隅田好枝が生まれる | |||||
5~6月 | アメリカ、Selective Draft Act(選抜徴兵法)導入 | |||||
6月 | アメリカ、Espionage Act(スパイ法)導入 | |||||
10月 | 聖書、明治訳の新約部分が改訳され(大正訳)、明治訳旧約部分と合わせ、文語訳として発行。現在に至る | |||||
1918 | 7 | |||||
1月5日 |
アメリカで、兵役拒否に関連して信者が獄中にいることが知られる | |||||
1月25日 | 三浦忠治は香川県小豆郡土庄町で生まれる | |||||
3月31日 | 神田繁太郎は神戸キリスト教青年会館で内村鑑三の講演を聞き、後に師事するきっかけとなる | |||||
5月8日 |
ラザフォードらはアメリカでスパイ法違反の容疑で逮捕 |
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10月15,16日 | 内村鑑三が神田邸を訪問。モード・神田は内村からバプテスマを受ける | |||||
11月11日 | 第一次世界大戦、終戦 | |||||
1919 | 8 | |||||
明石須磨子は聖書研究者の信仰に惹かれる | ||||||
明石 力が生まれる | ||||||
3月25日 | ラザフォードらは上訴していたため、各1万ドルの保釈金によりアトランタ刑務所から保釈 | |||||
4月 | 内村鑑三、ラッセルの教えに言及 | |||||
4月14日 | ラザフォードらの上訴審 | |||||
5月14日 | ニューヨーク連邦第二巡回上告裁判所は判決を覆し、下級裁判所への差し戻し決定 | |||||
7月11-16日 | 内村鑑三、神田邸に滞在 | |||||
年末 | 内村鑑三の息子、祐之が神田邸を訪問 | |||||
1920 | 9 | |||||
5月5日 | アメリカ政府は、ラザフォードらに対する訴追を取り下げ。無罪確定 | |||||
1921 | 10 | |||||
朝鮮各地で“巡礼”公開集会が開催される。朝鮮語小冊子、『現在生存する万民は決して死することなし』の頒布 |
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春 |
明石家に(Watch Tower本部の?)ワツソンという伝道者が訪問。これをきっかけに明石順三は聖書の研究を始める |
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1922 | 11 | |||||
この年の頃、明石順三は再びロサンゼルスの邦字新聞『羅府新報』に移籍 | 姜範植(カン・ボムシク)は、米国のラザフォード会長から送金された2,000ドルで小型印刷機7台を組み付け、朝鮮語、中国語、日本語の文書類の印刷を開始 | |||||
5月27日 |
明石光雄が生まれる。光雄氏によれば、明石順三・須磨子夫妻はこの後離婚 |
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●1923 | 12 | |||||
神田静栄の夫で繁太郎の兄の雄二郎氏が死去 日本語の冊子、『現在生存する万民は決して死する事なし』の発行 |
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9月1日 | 関東大震災 | |||||
9月2日 | 神田繁太郎らは、「須磨浦聖書講堂」(神戸西須磨上小神)の看板を設置 | |||||
1924 | 13 | |||||
花岡亀一とアルバート・キノシタは、ハワイの聖書研究グループに出席していたが、この年ハワイに日本語での勉強グループが開設。両者はグループの養成に当たる |
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明石順三は羅府新報社を退職 | ||||||
明石順三は巡回講演伝道者となり、アメリカ各地を廻って在米邦人の間での信仰の普及に努める | ||||||
2月1日 | 明石順三の手紙が、この日付のWATCH TOWER誌に掲載 | |||||
4月30日 | 井上隣太郎は、内村鑑三の弟子である青木義雄の長女、青木富久子と結婚 | |||||
●1925 | 14 | |||||
5月 | 治安維持法の制定 | |||||
10月 | 明石順三の訳による『神の立琴』が出版 | |||||
12月27日 | 神田繁太郎は、自著『王国の饗宴』を発行 | |||||
●1926 | 15 | |||||
この頃、神田繁太郎はWatch Tower Societyから日本支部設立の協力を求める手紙を受け取る |
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1月2、5日 | 内村鑑三が神田邸、須磨浦聖書講堂を訪問。5日には「接木の理」の説話 | |||||
4月 | 明石順三はラザフォードから極東代表者として日本、シナ地域に運動を展開するよう連絡を受ける。以後、明石須磨子はアメリカに残る | |||||
9月6日 | 明石順三が日本支部を作るため横浜に単身帰国。その後2週間、東京に滞在。日本、中国、朝鮮の代表の仕事を請け負う | |||||
9月末 | 明石順三は、神戸の神田繁太郎宅に移動 | |||||
この年の頃、葉フミイは灯台社に入信 | 日本灯台社とは別系統で1923年から上海で活動していたベッシー・バーチェット(Bessie Barchet)が、Bible Studentsの教えに興味を持っていた中国人の陳法蘭(チェン・フランク)について明石順三に通知 | |||||
12月 |
機関誌『燈臺』(灯台)の創刊。後藤亮 方(神戸市新開地)を発行所とする |
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昭和 | ||||||
●1927 | 2 | |||||
姜範植(カン・ボムシク)が、印刷機器を私利のために用していることなどが判明したため、朝鮮の責任者が朴?濬に交替させられる |
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3月 | 明石真人、力、光雄は信者の山中善重につれられて帰国 | |||||
5月 | 講演会のため、「万国聖書研究会」という看板を掲げた臨時事務所を大阪南区鰻谷に設置。大規模な宣伝活動 | |||||
5月3日 | Watch Tower Societyは同日付で明石順三に全権委任状を発行 | |||||
5月25日 | 大阪の朝日新聞社講堂で、「神の国は近づけり」という題で講演会 | |||||
6月 | 和歌山市公会堂で講演会 | |||||
7月 | 沖縄系のジェームズ・名幸はハワイでバプテスマを受ける |
京都市公会堂で講演会 |
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8月 | 淡路島・洲本で講演会 | |||||
8月末 | 明石順三と酒井醇一郎は本拠地移転準備のため、上京 | |||||
9月10日頃 | 本拠地を東京市京橋区畳町13番地根本ビルディング3階の一室に移転。(現:東京都中央区京橋3-1-1の柳通り沿い)灯台社の正式設置 | |||||
10月10日 | 朝日新聞大講堂で「神の国は近づけリ」の講演会 | |||||
10月16日 | 東京、青山会館で「基督教文明の崩壊」の講演会 | |||||
10月22日 | 東京、本所公会堂で「神の救ひ遂に来る」の講演会。3週連続の大講演会で計5,000人が集まった | |||||
11月初旬 | 東京、神田の留日青年会館で講演会 | |||||
1928-1930 | 3-5 | |||||
明石順三は、台湾の台北を訪問し、公会堂で講演会を開く | ||||||
●1928 | 3 | |||||
2月 | 『黄金時代』誌日本語版の創刊 | |||||
恐らくこの頃、ジェームズ・名幸は花岡亀一と共に日本から日本語の『黄金時代』と『灯台』を月間1,000冊受け取り、無料で配布 | ||||||
6月 | 治安維持法は最高刑を死刑または無期懲役と規定 | |||||
7月 | 特別高等警察課が内務省に新設。全国的となる | |||||
8月 | パリ不戦条約に日米調印 | |||||
●1929 | 4 | |||||
この年の頃、神田繁太郎は須磨に戻る | ||||||
この年、明石家の三兄弟は荻窪の桃井第二小学校で国旗敬礼を拒み、全校生徒の前で校長に叱られる。また天長節(昭和天皇の誕生日)や明治節(明治天皇の誕生日)等の祝祭にも、天皇を偶像化することを避けるという理由から出席しないと自己判断している | ||||||
3月23日 | 石井マツエ、洗礼。夫の治三もすぐ後に受洗 | |||||
4月 | 明石順三、東京地方裁判所にて新聞紙法違反で罰金100円 | |||||
6月28日 | 神田夫妻が送った手紙に内村鑑三から返事が来て、双方は和解を確認する | |||||
9月 | 石井マツエはコルポーターになる。その後、治三と共に大阪、京都、名古屋、横浜、東京、仙台、札幌、岡山、四国を巡る | |||||
●1930 | 5 | |||||
この頃から赤松今朝松が巡回指導者(後の巡回奉仕の僕)として各地の社員を激励を始める。後、長縄由三、後再度、赤松が担当 |
この頃、出井みよは台中市の友人宅で落合三郎に会う 朝鮮の李侍鍾(イ・シジョン)はこの年、入信(22歳)。その後、コルポーター活動。京畿道(キョンギド)を皮切りに朝鮮半島の津々浦々で活動。満州にまで足を延ばす。 |
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夏 | 石井治三・マツエは灯台社事務所で働き始める | |||||
9月 | 石井治三・マツエは北海道に移る | |||||
10月 | 灯台社は、東京府豊多摩郡井荻町荻窪4丁目58番地(その後の杉並区上萩一丁目21番18号、20号)にバラック建ての一軒家を設営して移転 | |||||
1930年直後、台湾では大江頼一(よりいち)という30代の伝道者が当時“藩人”と呼ばれた高砂族(現在では高地人と呼ぶ)の間で伝道に努める | 10月、霧社の高砂族住民タイヤル族の一部が、日本の植民地政策による警官の搾取に対して叛乱 | |||||
12月 | 明石順三と神田静栄が再婚 | |||||
『政府』日本語版の出版 | ||||||
●1931 | 6 | |||||
各国でJehovah's Witnessesの名称を採択 | 機関紙の発行部数は、1931~2年頃、4万部余り。天皇、宮家、首相、内大臣、各大臣、貴衆両院議長、議員、枢密院、各省の高官から各界人、一般の人にまで届けられるアメリカでの名称採択に呼応し、日本で「エホバの証者」と自称するようになる |
朝鮮の事務所が京城(現ソウル)市桂洞147に(朴?濬 宅)に移動 |
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『預言』日本語版の出版 | ||||||
4月 | 三浦勝夫は灯台社発行の本を読み、灯台社に手紙を書く | |||||
6月 | 三浦勝夫の所に石井マツエが訪ねる | |||||
8月 | 三浦勝夫、洗礼 | |||||
9月19日 | 満州事変勃発 | |||||
10月 | 三浦はぎの(勝夫の妻)、洗礼 | 上海に、台湾から二人の日本人のコルポーターが到着する。後に明石順三も到着する | ||||
10月21日 | 上海の陳 法蘭(チェン・フランク)と親友の鮑文忠(バオ・ミンヨン)が中国で最初にBibleStudentsとしてバプテスマを受ける。その後、明石の指示で陳は中国語版、『神の国』、『戦争それとも平和、そのどちらか?』、『政府』という小冊子、書籍の翻訳開始。陳は『神の国』の冊子500部を街頭で配布 | |||||
11月 | 三浦勝夫・はぎのは上京して伝道を始める | |||||
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この年、朝鮮半島で灯台社員は30,920件の家を訪問している | |||||
●1932 | 7 | |||||
この年の初頭、中国の鮑 文忠(バオ・ミンヨン)は日本軍の兵士に射殺される | この頃、キリスト教徒の当山昌謙(沖縄)は上運天先文と接触し、燈台社の信仰に傾倒し始める | |||||
春 | 台湾・嘉義(チアイー)の郊外で落合三郎は出井尤祐・みよと再会。以後、5年間単独で活動 | |||||
5月20-22日 | 東京で二度目の奉仕大会を開催。58人が出席 | |||||
6月 | 警視庁、各都道府県に特高課が置かれ、全国的に特高網が敷かれる。宗教活動に対しても、教義、思想に対する取締りが一層厳しくなる | |||||
6月11日-13日 | 朝鮮半島で最初のグループの大会を開く(京城(現ソウル)) | |||||
●1933 | 8 | |||||
隅田好枝は『黄金時代』誌を読み、藤井惣吉や三浦勝夫の勧めも受けて灯台社とかかわる |
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1月30日 | ドイツ帝国のヒトラーが首相となる | |||||
3月14日 | 陸軍大臣 荒木貞夫に、第5師団長の二宮治重中将から「黄金時代ト題スル思想印刷物郵送越ノ件」という報告が送られる | |||||
4月24日 | ドイツ、マグデブルグのWatch Tower Society関連の事務所や集会所が警官により一時的に占拠。文書類の没収 | |||||
5月中旬 | 灯台社が千葉県特高課による一斉検挙を受け、全国でも百余名が検束。最初の弾圧が始まった。きっかけは千葉県で配布された文書の摘発だった。明石真人(15歳)らも伝道旅行先の静岡県藤枝で逮捕。(明石順三の報告) | 京都大学・滝川教授事件 | ||||
5月16日 |
東京日日新聞に「宗教の名に隠れ 黒き思想の種まき 国際的な秘密結社」と報道される 神戸又新日報に「世界的秘密結社『灯台社』員捕わる」と報道される |
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5月19日 | 大阪毎日新聞に「秘密結社 燈台社の正体 神の名に隠れて『黒き細胞』は跳梁アジトにはハウスキーパ 共産党もどきの暗躍」と報道される | |||||
5月22日 | 明石順三は奉天(瀋陽)にいたが知らせを聞き、同日千葉県庁に任意出頭。過去6年間に合法的に発行してきた書籍冊子印刷物全部が発売禁止処分。『黄金時代』誌34、36号だけが発売禁止を逃れる。宗教結社としては日本で最初の弾圧。この事件がきっかけで、機関紙『燈薹』(灯台)は発行を停止する | |||||
5月24日 | 大阪時事新報に「灯台社の後楯に恐るべき暗殺団」と報道される | |||||
5月25日 | 神戸新聞に「美しき仮面こそ恐るべき人類の敵大暗殺団」と報道される | |||||
5月26日 |
明石順三は4日間留置取り調べされた後、釈放 大阪時事新報に「地球をめぐる妖光灯台社の全貌」と報道される |
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5月27日、30日 | 明石順三は再組織にかかる。長縄由三と相談後、今後いかなる弾圧があっても灯台社の伝道活動に生きる覚悟があるかを確かめる手紙を全国のパイオニアに送る | |||||
6月 | この頃までに、オーストラリアから来たシュェット夫婦(Schuett)は、その後、香港、芝罘(チーフー)、汕頭(スワトウ)、天津(テンシン)、青島(チンタオ)、北京等で活動 | 確信的な応答を得た人たちで再出発 | ||||
6月17日 | 朝鮮の京城(現ソウル)にある灯台社事務所を警察が手入れ。文書類5万冊が没収、焼却 | |||||
6月20日 | 大阪朝日新聞に「禁制本の大洪水 : 米国から廻り道して神戸へ : 例の灯台社の暗躍」と報道される | |||||
6月24日 | ドイツのプロイセン州警察がWatchtower Society関連の組織と活動に禁止令を発令 | |||||
6月28日 | ドイツ、マグデブルグのWatch Tower関連事務所の2回目の手入れと閉鎖 | |||||
7月16日 | 大阪時事新報に「また灯台社員二名を検挙」と報道される | |||||
8月15日 | 朝鮮の灯台社員宅に手入れ、33,000部の文書が押収。以後、発禁処分にならなかった『黄金時代』誌の配布に力が入れられる | |||||
10月3日 | 財団法人上伊那図書館で発売禁止図書調査。『神の救ひ』、『和解』、『創造』を伊那警察署に引き渡す | |||||
10月5日 | 財団法人上伊那図書館に対し伊那警察署は『神の立琴』の発表禁止を通知 | |||||
●1934 | 9 | |||||
この年の頃、葉フミイは高知県を伝道中、夫 葉国燕(台湾の社員)と結婚 | ||||||
8月26日 | 三浦勝夫は、神戸史灘区福住尋常小学校における簡閲点呼に際し、奉公袋の不携帯と軍人分会への不加入につき、少佐から尋問を受ける | |||||
9月6日 | 明石順三は、斎藤 実前首相宅で面談 | |||||
9月12日 | 上運天先文は、鹿児島県大島警察署にて尋問を受ける | |||||
9月25日頃 | この頃からWatch Tower誌の翻訳『光』/『ワッチタワー』他、『黙示録研究』、『聖書研究』等数百十種、謄写版小冊子『戯曲 証明』他数種を作成 | |||||
●1935 | 10 | |||||
この年から1940年(昭和14)まで『日々の糧』発行 隅田好枝が上京。事務所と共に働く |
朝鮮の代表が朴?濬から文泰順に交替 同年、中国では、4人のパイオニヤが南京、上海、青島(チンタオ)、漢口(ハンコウ)、九江(チウチャン)、蕪湖(ウーフー)、蘇州(スーチョー)などで活動 |
大本(おほもと)教事件。宗教団体が治安維持法の適用を初めて受ける | ||||
1月17日 | 大阪市実業会館で明石順三が講演会 | |||||
2月10日 | 朝鮮、京城(現ソウル)の京城日報来青閣で「邪悪キリスト教を審判す」の題目で明石順三が講演会 | |||||
3月から | 毎週木曜日に「聖書木曜講演」を東京淀橋公会堂において明石順三が開催 | |||||
4月から | 「聖書十講」という連続講演研究会を大阪市実業会館、神戸県会議事堂で明石順三が開催 | |||||
4月6日 | 神戸市県会議事堂で明石順三が講演会 | |||||
5月 | 灯台社事務所に中古の印刷機を導入。すべての文書を灯台社内部で印刷できるようにする | |||||
6月3日 | 奉仕会議で国旗礼拝拒絶についての意見表明 | |||||
夏 | 村本一生は帰省の折に『黄金時代』誌を読み、明石順三に手紙を書く | |||||
9月9日 | 斉藤 実 前首相、明石順三より面会お礼の書状を受け取る | |||||
10月 | 朝鮮・ピョンヤンの白善行記念館で「天国は近づけり」の題目で明石順三が講演会 | |||||
●1936 | 11 | |||||
1月15日 | 日本、ロンドン海軍軍縮会議から脱退 | |||||
斉藤 実 前首相、ラザフォード会長のラジオ演説の手渡したいという趣旨の書状を受け取る | ||||||
2月5日 | 斎藤 実 前首相は、明石順三と面会して話を聞く | |||||
2月26日 | 二・二六事件。斎藤実が暗殺される | |||||
3月 | 村本一生は灯台社事務所に入る | |||||
3月9日 | 大阪朝日新聞に「味噌樽から怪文書今度は赤と手を握って例の燈台社がまた暗躍」と報道される | |||||
3月13日 | 大本教に対し、内務省が解散命令 | |||||
5月頃 | 村本一生は、大江頼一らと共に最初の地方伝道に自転車で出かける。碓氷峠-新潟-柏崎-親不知-富山県三日市(黒部)-魚津-飛騨高山-長野県飯田-伊那-赤石岳山麓-三国峠-小仏峠-東京 | |||||
8月1日 | 第11回ベルリン/オリンピック開催(ドイツ) | |||||
9月 | 当山昌謙(沖縄)は上運天先文により受洗 | |||||
11月25日 | 日独防共協定、ベルリンで調印 | |||||
11月30日 | 東京淀橋公会堂で明石順三が講演会 | |||||
12月4日 | 西安事件 | |||||
●1937 | 12 | |||||
村本一生、伝道旅行。横浜-三島-豊橋-三重県四日市-津-尾鷲-木本-新宮-串本-和歌山-神戸-姫路-岡山県津山-鳥取-松江 | ||||||
3月30日 | 『国体の本義』(文部省編)出版 | |||||
4月 | 高松市在住の岸田慶二郎は三浦忠治宅を訪ねる。三浦は『黄金時代』の定期購読契約。後に三浦は燈台社に手紙を送る | |||||
4月15日 | ヘレン・ケラー来日 | |||||
4月28日 | ひとのみち教団、不敬罪容疑をもって結社禁止 | |||||
5月頃 | 濱野嘉市は灯台社から通達を受け、三浦忠治を訪ねる | |||||
7月6日 |
『大阪毎日新聞』に「米国宗教雑誌発禁」と掲載 |
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7月7日以降 | 盧溝橋事件-日華事変。日中戦争の発端となる | |||||
8月13日 | 上海に日中戦争の戦火は拡大 | |||||
8月15日 | 日本政府-南京政府、全面戦争開始 | |||||
8月21日 | 中国、ソ連と不可侵条約 | |||||
8月24日 | 日本政府、国民精神総動員要綱を決定 | |||||
11月5日 | 日本軍、杭州湾に上陸 | |||||
11月6日 | イタリア、日独防共協定に参加 | |||||
11月19日 | 朝鮮の玉智俊とその家族が、バプテスマを受けて入信 | |||||
11月24日 | 東京帝大経済学部長土方成美、矢内原忠雄の言論活動を非難。12月4日、矢内原退官 | |||||
11月30日 |
東京淀橋公会堂で明石順三が講演会。主題:「老淫婦の魔笑」。400名程の出席 |
|||||
12月 |
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大江頼一と香坂吉内は、台湾・嘉義の陳寛培(日本名:出井尤裕)と出井みよの家に到着する。夫婦でバプテスマ | ||||
12月13日 | 日本軍、南京を占領 | |||||
12月18日 | 宗教法案の諮問審議のため、宗教制度特別委員会が開催され、同法案でもって改案となる | |||||
●1938 | 13 | |||||
1月 |
『なぐさめ』誌に『黄金時代』誌が改題。印刷部数は1,125,17部に達する
|
台湾人の代書、ツー・チン・テングと阿美族の数名がバプテスマ この頃、タイツング郡の二人のメンバーが出井家族に合流するためチアイに移ったと思われる |
||||
2月 | 皇民化政策のもと、朝鮮で志願兵制度が施行 | |||||
3月3日 | 大阪憲兵隊、大阪府下の諸協会の代表的教職並びにキリスト教主義学校に13か条の質問状 | |||||
3月13日 | ドイツ、オーストリアを併合 | |||||
春 | 村本一生、伝道旅行。北海道-函館で召集令状を受け取る | |||||
4月 | 玉應連が加わる。その後、朝鮮の黄海道やピョンヤン等で朝鮮語に訳した機関紙『幸福の道』その他の小冊子を配布 | |||||
4月1日 | 日本政府、国家総動員法公布 | |||||
4月10日 | 村本一生(26歳)は熊本市の六師団歩兵十三連隊に入隊 | |||||
5月19日 | 日本軍、徐州を占領 | |||||
5月21日 | 当山昌謙、徴兵に応召。台湾歩兵第一連隊に入隊 | |||||
6月頃 | 朝鮮で逮捕が始まる | |||||
7月 | 『富』日本語版の出版 | |||||
7月下旬 | 村本一生は満州に送られ、ハイラルの関東軍守備隊第二十三師団に編入。この時から翌年1月まで毎日点呼の際、宮城遥拝を拒否 | |||||
8月中旬 | 濱野嘉市、岸田慶二郎、岸田健三は小豆島土庄町の下宿を拠点に活動 | |||||
9月 | 当山昌謙、この月以降中支、南方の戦線に出動 | |||||
9月8日 | 三浦忠治は与島にて岸田慶二郎から受洗 | |||||
9月16日 | 三浦忠治は濱野ら3人のグループに合流し、拠点を徳島市助任本町に移して活動 | |||||
9月29日 | 英・仏・独・伊首脳会議。ヒトラーのチェコスロバキア・ズデーデン地方の割譲要求を承認 | |||||
10月1日 | ドイツ 、チェコスロバキアに進入 |
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10月27日 | 日本軍、武漢三鎮を占領 | |||||
12月 | 明石順三は最後の訪朝で、朝鮮の灯台社員と会合 | |||||
12月末 | 村本一生一等兵は、隊の命令で神奈川県相模原淵野辺の陸軍工科学校へ技術下士官要員として派遣されることとなる。3か月後には満州に帰る予定 | |||||
冬 | 朝鮮の朴玉姫らは、慶尚道(キョンサンド)で活動 | |||||
●1939 | 14 | |||||
ドイツ人信者のヴィリー・ポェトコ、ヘルマン・ゲートラーそしてパウル・モビウス(Willie Poethko, Herman Guettler and Paul Mobius)は、Watch Towerスイス支部の命で上海に赴任 同年、香港で、シュェット夫婦(Schuett)ら5人の信者が2ヶ月間活動 |
教信徒概数270名。機関紙の継続購読者数3,000。(『昭和十四年に於ける社会運動の状況」) | |||||
1月 | 村本一生は休暇日に灯台社を久しぶりに訪ねる | 三浦忠治(22歳)が入隊 | ||||
1月8日 | 三浦忠治は父親と叔父と共に実家に戻る | |||||
1月9日~4月 | 聖書十講と聖書木曜研究会を淀橋公会堂、大阪、神戸市内各10~17回ほど開催 | |||||
1月10日 | 明石真人(20歳)は、東京世田谷三宿の野砲第一連隊留守隊に入隊 | |||||
1月17日 | 明石真人は銃器返納を申し出、罰として営倉入りとなる。その後、憲兵隊に引き渡される。その後、明石夫妻は世田谷の野砲連隊本部に呼ばれるが、「真人の行ったことは、信仰上からみて当然の正しい行為であると思う」と言明 | |||||
1月23日頃 | 村本一生は明石真人が銃器返納をしたことを齋藤光から知る。この晩、脱柵するも順三に諭され兵営に戻る | |||||
1月24日~27日 | 村本一生は罰として軽営倉三日の処分。三日目釈放後に銃器返納 | |||||
1月28日 | 村本一生は再度営倉に入れられる | |||||
1月29日 | 村本一生は憲兵隊に引き渡される。以後憲兵隊の留置場から陸軍刑務所へと移され、未決囚として拘置 | |||||
2月 | 朝鮮の朴玉姫は、慶尚道(キョンサンド)で活動後、この頃、京城(現ソウル)に戻る。そのあとすぐ、夫の崔性圭(チェ・ソンギュ)は京城の東大門(トンデムン)警察署の警官に逮捕。神社での参拝拒否を非難される。刑務所で二十日間の拘禁中に腸チフスにかかり、病院へ移送。40日間の入院後、釈放 | |||||
3月~4月 | 聖書研究会を大阪・神戸・芦屋において週一度開催 | |||||
4月 | 落合三郎と香坂吉内、台湾で逮捕 | |||||
4月8日 | 宗教団体法公布 | |||||
5月1日 | 三浦忠治は香川県善通寺の連隊に招集。真影の拝礼拒否の意思を表明 | |||||
5月12日 | ノモンハン事件 | |||||
5月~8月 | 村本一生が一時所属していた関東軍守備隊第二十三師団はノモンハンの日ソの戦闘でほとんど全滅 | |||||
6月14日 | 明石真人は1月の銃器返納後、取り調べを受けていたが、不敬・抗命罪で起訴され、同日、軍法会議の裁判で懲役3年の判決、その後、衛戌監獄(代々木の陸軍刑務所)に収監されることとなる。村本一生も同所別軍法会議法廷で同じ罪につき懲役2年の判決 | |||||
6月16日 | 三浦忠治は香川県善通寺の第十一師団軍法会議で懲役2年の判決 | |||||
6月20日 | 大阪衛戌監獄に収監。1年半後、丸亀連隊に戻され、ビルマ戦線に送られる | |||||
6月21日 | 灯台社本部は午前5時に武装警官により一斉検挙を受ける。日本各地の活動家、機関紙購読者も検挙。村田芳助(秋田県横手の益鳥)は、仙台市内で逮捕、警察、拘置所、宮城刑務所と巡り、合計6年の獄中生活を送る。葉夫妻は石川県特高課に検挙される。その後、フミイは転信を表明して釈放 | |||||
6月22日 | 河野清子が神奈川県で検挙 | 台湾で9人が検挙 | ||||
6月23日 | 山田夕子が警視庁により検挙 | |||||
6月29日 |
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朝鮮京城(現ソウル)の灯台社支部に属する張順玉、玉禮俊、玉智俊を含むメンバー30人以上が全員逮捕。神社への礼拝を拒んだということで後、投獄され、長期の獄中生活、死亡者も出た |
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8月18日 | 村本一生は陸軍刑務所の独房で刑務所長から思想と信条を書くよう要請され、同日「シナ(日華)事変の真相」と言う手記を完成させる。ナチやファシストの批判。これは司法省刑事局に送られ、灯台社の思想資料とされる | |||||
8月23日 | 独ソ不可侵条約調印 | |||||
8月末 | 明石順三は荻窪署に留置されていたが、尾久署に移送。以後7か月にわたり取り調べ。警視庁特高二課宗教班長 木下英二警部、取調主任 吉成源五警部補、金森・岩瀬両課員による過酷な取り調べ | |||||
9月1日 | ドイツ、ポーランドに侵攻。第二次世界大戦始まる | |||||
10月 | 出井 尤裕、釈放 | |||||
10月20日 | 物価統制令実施 | |||||
11月 | 朝鮮の李貞相、金福女、金敬姫はピョンヤンで治安撹乱、発禁文書の配布の罪で逮捕 当時、38人の信者が投獄されていたが、このうち5人が後に死亡した |
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1940 | 15 | |||||
皇紀2600年 | ||||||
2月1日 | 奥村省一、北海道で起訴猶予 | |||||
2月11日 | 村本一生は刑務所で紀元節の祝典での宮城遥拝を拒否、殴打を受ける。その後、監禁、減食処分、戸外運動禁止が2か月続く。明石真人も刑塀禁となる。その後、刑務所内図書室の図書係をする | 紀元節 | ||||
2月14日 | 明石順三に対する取り調べを木下班長が自分でするようになる | |||||
4月1日 | 明石順三の調書の作成終了 | |||||
4月11、12日 | 東京刑事地方裁判所検事局他、13の地方検事局の関係主任検事が東京に集合し、前年一斉検挙後の取調状況と収集と今後の具体的対処法に関し協議 | |||||
4月17日 | 明石順三は東京刑事地方裁判所検事局に送局。この頃、前後して前年の一斉検挙を受けた人たちは順次、所轄検事局に送局 | |||||
5月 | 葉 国燕が起訴猶予処分を受け、釈放 | 司法省で開かれた思想実務家会同(治安対策と言論・思想・信仰の取締を担当した全国の地裁、控訴院などの判・検事会議)において、取り調べを指揮した東京刑事地方裁判所の検事、西ヶ谷徹は灯台社を国体の変革と結びつけ、「此の結社の存在は一日も許すことはできない」と述べる | ||||
5月10日 | ドイツ、西部戦線攻撃開始 | |||||
6月13日 | ドイツ、パリに無血入城 | |||||
7月 | 社会大衆党、政友会等、各政党相次いで解党 | |||||
7月2日 | 太田幾松、勝田義雄、警視庁で取り調べを受け起訴 | |||||
7月11日 | 太田幾松、勝田義雄、起訴予審 | |||||
7月15日 | 山田春一、警視庁で取り調べを受け起訴 | |||||
7月23日 | 金子信美、福岡で起訴 | |||||
7月25日 | 西谷貞市、北海道で起訴 | |||||
7月27日 | 岸田健三、徳島で起訴猶予 | |||||
7月29日 | 岩崎喜一、警視庁で取り調べを受け起訴 | |||||
7月30日 | 小林秀雄、愛知で起訴。松田千秋、徳島で起訴猶予 | |||||
8月1日 | 岸田只七、赤松静枝、大阪で起訴。森川新一、寺井鉄之助、寺井つるゑ、小坂金七、小坂ヌイ子、兵庫で起訴。脇川すみ子、兵庫で起訴猶予 | |||||
8月3日 | 赤松今朝松、齋藤光、警視庁で取り調べを受け起訴。岸田かめよ、木沢鶴子、大阪で起訴 | |||||
8月5日 | 下条敏範、起訴 | |||||
8月6日 | 栗山雅子、村井みね子、角田英子、大阪で起訴猶予 | |||||
8月7日 | 角田常次郎、大阪で起訴 | |||||
8月9日 | 明石順三の19回目の最終検事聴取書作成 | |||||
8月10日 | 玉應連、警視庁で取り調べを受け起訴。藤井惣治、小林九十九、小林きい、京都で起訴。剣持義雄、重根徳松、吉本楠太郎、和歌山で起訴 | |||||
8月16日 | 中村万吉、警視庁で取り調べを受け起訴 | |||||
8月20日 | 石田壽枝、大阪で起訴猶予 | |||||
8月22日 | 松田重信、大阪で起訴。村井和水、中尾とく、石川で起訴 | |||||
8月25日 |
賀川豊彦、反戦思想の説教後に逮捕。9月13日釈放 | |||||
8月27日 | 灯台社に、内務大臣から治安警察法第8条第2項により強制閉鎖命令が発令され、強制解散扱いとなる。奥村豹太郎、警視庁で取り調べを受け起訴 | |||||
8月28日 | 明石順三、警視庁で取り調べを受け起訴 | |||||
8月29日 | 藤井愛子、京都で起訴猶予 | |||||
8月31日 | 葉 国燕、石川で起訴猶予 | |||||
9月3日 | 濱野嘉市、徳島で起訴 | |||||
9月11日 | 日本政府、部落会・町内会・隣保班・市町村常会設置要綱を各府県に通達 | |||||
9月12日 | 辻本正次、広島で起訴 | |||||
9月16日 | 西野忠柳、警視庁で取り調べを受け起訴 | |||||
9月20日 | 奥村さだ、福富さだを警視庁が検挙 | |||||
9月21日 | 日本、北部フランス領インドシナに進駐 | |||||
9月25日 | 赤坂健一、赤坂政吉、吉村ハツエ、赤坂千代、栗生亀太郎、横岡正英、ほか12名、和歌山で検挙、取り調べ。後、大半が転向を表明するが7名は送局となる。三浦勝夫、広島で起訴 | |||||
9月26日 | 明石 力が警視庁で取り調べを受け起訴。河村秀三、和歌山で起訴猶予 | |||||
9月27日 | 明石静栄が警視庁で取り調べを受け起訴 | 日独伊三国同盟条約、ベルリンで調印 | ||||
9月28日 | 石井治三、宮城で起訴。竹村チカ、西野博子、警視庁で取り調べ後起訴猶予 | |||||
9月30日 | 於宿辰次郎、警視庁で取り調べを受け起訴猶予。村田 操、宮城で起訴猶予 | |||||
秋 | 落合三郎と香坂吉内はフシンチュ少年刑務所へ移送 | |||||
10月 | 朝鮮の玉桂星、李貞相、金鳳女、検挙 | |||||
10月3日 | 赤松美哉子、警視庁で取り調べを受け起訴 | |||||
10月4日 | 山田九平、和歌山で検挙。千川初子、警視庁で取り調べを受け起訴 | |||||
10月12日 | 大政翼賛会発会 | |||||
10月15日 | 崔容源、上田丈吉、警視庁で取り調べを受け起訴。久保川健一、広島で起訴 | |||||
10月21日 | 隅田好枝、警視庁で取り調べを受け起訴 | |||||
10月25日 | 久保川信子、三浦はぎの、広島で起訴猶予 | |||||
10月29日 | 角田タネ、警視庁で取り調べを受け起訴。松鹿惠一、吉成イエ(栄子?)警視庁で取り調べを受け起訴猶予 | |||||
10月30日 | 長縄美彌子、警視庁で取り調べを受け起訴猶予 | |||||
10月31日 | 奥村さだ、福富さだは検事局に送局。小池喜志子、竹村定好、山里里江、警視庁で取り調べを受け起訴猶予。河野清子、神奈川で起訴猶予 | |||||
11月4日 | 奥村さだ、勝又ちせ、警視庁で取り調べを受け起訴猶予 | |||||
11月5日 | 長縄由三、警視庁で取り調べを受け起訴 | ルーズベルト大統領三選 | ||||
11月6日 | 河野利男、神奈川で起訴 | |||||
11月7日 | 山田タネ、警視庁で取り調べを受け起訴 | |||||
11月9日 | 神祇院官制公布。神社局廃止となる | |||||
11月10日 | 明石真人、祝典日の恩赦で6か月減刑 | 皇紀2600年の祝典日 | ||||
11月13日 | 福富さだ、警視庁で取り調べを受け起訴猶予 | |||||
11月29日 | 上運天先文、沖縄で起訴。妻のフミは起訴猶予 | |||||
11月頃 | 村本一生が名を置いていた満州の補充部隊が召集解除になったため当人にも釈放の内示。下旬に民間の豊多摩刑務所に移送 | |||||
12月6日 | 日本政府内に、内閣情報局設置 | |||||
12月14日 | 村田芳助、宮城で起訴 | |||||
12月16日 | 村本一生が出所釈放。明石光雄が出迎える。その後、村本は阿蘇に戻る | |||||
12月17日 | 小林いよ、愛知で起訴猶予 | |||||
12月18日 | 赤坂政吉、和歌山で起訴猶予 | |||||
12月23日 | 吉村ハツエ、山田九平、和歌山で起訴猶予 | |||||
12月24日 | 小林秀雄、神戸地方裁判所で懲役4年の判決言渡し、控訴。栗生亀太郎、横岡正英、和歌山で起訴猶予。 | |||||
12月26日 | 赤坂健一、和歌山で起訴猶予 | |||||
年末 | この年、前年6月以降の検挙で52名が起訴、37名が起訴猶予処分となる。検挙総数は累計115名 | |||||
1941 | 16 | |||||
同年までに日本灯台社とは別系統で活動していた上海のWatch Tower事務所は日本軍により閉鎖 同年、香港でウィルフレッド・ジョーンズ(Wilfred Johns)が4か月間活動 |
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治安維持法に、主に宗教団体の思想に適用するための「国体の否定」という項目が追加される | ||||
3月1日 | 国民学校令を文部省が公布 | |||||
3月10日 | 改正治安維持法が公布 | |||||
4月13日 | 日ソ中立条約、モスクワで調印 | |||||
4月16日 | 日米交渉正式に開始 | |||||
4月28日 | 石井マツエ、起訴 | |||||
6月 | 葉 フミイはこの頃から信仰に戻る | |||||
6月22日 | 独ソ戦争開始 | |||||
7月10日 | 小林秀雄は予審中だったが臨時召集を受け、千葉東部七十七隊に入隊 | |||||
7月25日 | 米英、国内日本資産凍結 | |||||
7月28日 | 日本軍、南部フランス領インドシナに進駐 | |||||
8月 | 村本一生は熊本市の補充兵簡閲点呼の際、宮城遥拝拒否。1時間半にわたる暴行。同月分『特高月報』38、39ページ、「燈台社事件の追検挙並に処理状況」に西野忠柳、太田幾松の転向に関する文献が載る。両名は同年、保釈出所している | |||||
予審終結決定 | ||||||
8月8日 | 濱野嘉市、徳島で懲役3年の判決言渡。服罪 | |||||
8月10日 | 齋藤 光は同日付の転向手記を警視庁に提出 | |||||
8月12日 | ルーズベルト・チャーチルによる米英共同宣言(大西洋憲章)発表 | |||||
8月25日 | 明石光雄、警視庁が灯台社再建の嫌疑で検挙 | |||||
9月 |
朝鮮の朴玉姫、逮捕、15日間拘留。その後、夫の崔性圭が釈放の8時間後に死去 このころ、中国海南島、?山の一寒村に駐屯していた時、当山昌謙は兵役拒否を申し出るが、上官によってうやむやにされる |
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9月6日 | 御前会議で、帝国国策遂行要領を発表 | |||||
9月13日 | 村井和水、石川で懲役5年の判決言渡、服罪。中尾とく、石川で懲役2年の判決言渡、服罪 | |||||
9月18日 | 石井治三、宮城で懲役2年、執行猶予4年の判決言渡。服罪 | |||||
9月19日 | 村田芳助、宮城で懲役4年の判決。控訴 | |||||
9月22日 | 石井マツエ、宮城で懲役2年、執行猶予4年の判決言渡。服罪 | |||||
秋の始め頃 | 明石順三の“新見解”なるものが当局側によって文書で他の獄中の灯台社関係者に配布。明石真人、隅田好枝、熊本に戻った村本一生の手にも渡る | |||||
10月 | 落合三郎と香坂吉内、台北刑務所へ移送。香坂は結核を罹病 | |||||
10月5日 | ゾルゲ事件、尾崎秀実、国際スパイ容疑で逮捕 | |||||
10月6日 | 藤井惣治、京都で懲役4年の判決言渡後、即時控訴。小林九十九・きい夫妻、京都で懲役2年、執行猶予5年の判決言渡、服罪 | |||||
10月8日 | 明石光雄、検事局に送局 | |||||
10月18日 | 東条英機内閣成立 | |||||
11月3日(明治節) | 明石真人(22歳)は仮出所を許可されたとき、銃器返上の申し出を撤回。軍務に就くことを受諾。弟の力が出迎える。即日、世田谷の原隊に復帰。出所の際、旧灯台社関係者に送付された手記によると「父順三がルサフォード(ラザフォード)の説に反対して独自の教理を案出して居るとの知らせ」を受けたのが一つの理由であったらしい。しかし順三の実際の態度ついては定かではない(161)。真人は戦車隊に入り、一等兵で帰還した。真人の服役中に面会に来ていた次男の明石 力は真人の勧めで軍属となり、南方で戦病死した。順三は死ぬまで真人と会おうとしなかった | |||||
11月10日 | 明石光雄、起訴猶予 | |||||
11月17日 | 西谷貞市、懲役3年の判決言渡 | |||||
西谷貞市、北海道で懲役3年の判決確定 | ||||||
11月30日 | 出井尤祐・みよ、台湾で逮捕。そのまま台北七星刑務所で拘束。その後、みよは獄中で刑事がくれた新約聖書を読む | |||||
12月 |
フィリピン・セブ島(Cebu)のツブラン(Tuburan)で活動中の信者、レオデガリオ・バルレイアン、ナティビダド・サントス(Leodegario Barlaan, Natividad Santos)らは、フィリピン人中尉により、日本側スパイの嫌疑で逮捕されるが、五日間の拘留後、釈放 タイ警察は、日本当局の命を受けてタイで活動していたオーストラリア人信者、ジョージ・パウエル、ジョン・エドワード・シューエル(George Powell, John Edward Sewell)を敵性国民として逮捕。事後、3年8か月間、バンコクの抑留所に拘留 |
当山昌謙、フィリピン戦線にて誤爆により負傷、入院。年末に台湾・高雄の陸軍病院に。その後、台北、蘇澳へと転院 |
日本軍、タイに侵攻 | |||
12月1日 | 村本一生、田邊富子は社員から手紙を受け取っていたという理由で灯台社再建運動の嫌疑をかけられ、熊本県で検挙。寺井幹彦、相川忠蔵、井上幸四郎、大沢文子も共に検挙 | 御前会議、対米英蘭開戦を決定 | ||||
12月8日 | 日本軍、マレー半島に上陸。真珠湾攻撃。日本、対米英蘭華宣戦布告 | |||||
12月10日 | マレー沖海戦。日本軍、フィリピンに上陸 | |||||
12月11日 | 独伊、対米宣戦布告 | |||||
12月12日 | この戦争を「大東亜戦争」と呼称することを発表 | |||||
12月13日 | 藤井惣治、寺井鉄之助、京都で懲役2年6か月の判決言渡、上告 | |||||
12月14日 | フィリピン、パンガシナン県のペドロ・ナバロ(Pedro Navarro)ら信者17人は、フィリピン軍に日本支持者の嫌疑で逮捕される。後日、一度釈放の後、再逮捕され、同県タユグ(Tayug)の刑務所に入れられる。最終的にアメリカ極東空軍(USAFFE)本部の取調べを受け、冤罪と判明、釈放 | |||||
12月19日 | 三浦勝夫、広島で懲役4年の判決言渡、即日控訴。久保川健一、広島で懲役3年の判決言渡、即日控訴 | 言論出版集会結社等臨時取締法令公布 | ||||
12月22日 | 金子信美、福岡で懲役2年、執行猶予3年の判決言渡、即日控訴 | |||||
12月24日 | 森上新一、兵庫で懲役4年の判決言渡。小坂金七、兵庫で懲役3年の判決言渡。寺井鉄之助、神戸地方裁判所で懲役4年の判決言渡。寺井つるゑ、小坂ヌイ子、兵庫で懲役2年、執行猶予5年の判決言渡、後服罪 | |||||
12月25日 | 日本軍、香港を占領 | |||||
12月26日 | 森上新一、寺井鉄之助、小坂金七、控訴 | |||||
年末 | 検察の取り調べ、被疑者93名に対する処分が完了。起訴合計53名(内第一審判決言渡済みの者18名、その内確定10名、控訴8名)、起訴猶予合計38名、不起訴(死亡)1名、起訴中止1名。警察釈放合計23名。 | |||||
1942 | 17 | |||||
タイで日本灯台社とは別系統で活動中のドイツ人信者、クルト・グルーバー、ハンス・トーマス、ウォルフヘルム・フックス(Kurt Gruber, Hans Thomas, Wolfhelm Fuchs)は、日本軍当局により逮捕。団体倉庫の文書没収となる。信者らはドイツ・ナチ党員ではなかったため、ドイツ大使館からの庇護を拒否された。三日三晩の殴打と尋問の後、バンコクの中央調査局(CID)に移送。そこから釈放された。同国でタイ人信者の活動は尾行を受け、信者の解説を受けた家人は尋問、脅迫を受けた |
荻窪の事務所は、内務大臣命令で強制売却処分。明石光雄は直後に釈放され、江東の鉄工場で働くこととする。同年、大沢文子は警察釈放 |
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1月1日 | 連合国(26か国)、ワシントンにおいて単独不講和・共同戦争遂行の共同宣言調印 | |||||
1月2日 | 日本軍、マニラを占領 | |||||
1月8日 | ラザフォードが死去 | |||||
1月13日 | ネイサン・ホーマー・ノア(Nathan Homer Knorr)がWatch Tower Societyの3代目の会長 | |||||
1月26日 | Watch Towerのフィリピン支部の監督だったポルトガル系アメリカ人のジョセフ・ドス・サントス(Joseph Dos Santos)は、敵性国家の国民という理由で日本軍が緊急に収容所としたマニラ中心部のSanto Tomas Universityに収監 | |||||
1月か2月 | 香坂吉内、結核で獄中死 | |||||
2月3日 | 長縄由三、東京刑事地方裁判所で第一回公判 | |||||
2月9日 | 辻本正次、広島で懲2年6か月 | |||||
2月15日 | 日本軍、シンガポールを占領 | |||||
2月22日 | 辻本正次、控訴 | |||||
3月1日 | 日本軍、ジャワ島に上陸。十日を経ずしてオランダ領インド軍降伏 | |||||
3月8日 | 日本軍、ビルマ(ミャンマー)のラングーン占拠 | |||||
3月10日 | 藤井惣吉、栄養失調のため1週間ほど前から保釈されていたが、死去 | |||||
3月20日 | 河野利男、神奈川で懲役2、猶3、服罪 | |||||
3月28日 | 明石夫妻、崔容源、玉應連、隅田好江に対する第一回公判 | |||||
春 | フィリピン、アグサンのブエナピスタ(Buenavista, Agusan)で活動中のところを逮捕されたいた信者、コンラド・ダクラン(Conrado Daclan)らは、オーストラリアのマッカーサー本部の通達で枢軸国側スパイの嫌疑を晴らされ、同日釈放 | |||||
4月7日 | 第2回公判。明石順三は天皇の尊厳神聖については否定するも「日本の皇室を又日本人を愛してをります」とも述べる | |||||
4月9日 | 第3回公判開廷。明石順三は自分自身の聖書の理解について幾分変化が生じたことについて言及。同時に同じ法廷にいた仲間を指して「一億対五人の戦い」とも言明 | |||||
4月10日 | フィリピン・セブ島で拘留中の信者、レオデガリオ・バルレイアン、ナティビダド・サントス(Leodegario Barlaan, Natividad Santos)らは、日本軍の侵攻が始まったため、所長命令で特例的に釈放 | 日本軍、フィリピンのセブ島に侵攻 | ||||
4月23日 | 和歌山:剣持義雄、懲3、服罪。重根徳松、吉本楠太郎、懲2、服。 | |||||
5月3日 | 当山昌謙、隊が召集解除となり那覇市に戻る。その後、醤油店で働く。直後から、『黄金時代』、『神の救ひ』等の文書を使用して証言宣明の行為 | |||||
5月19日 | 葉 フミイが新潟県特高課に治安維持法違反の嫌疑で検挙 | |||||
5月20日 | 翼賛政治会創立 | |||||
5月30日 | 明石順三は東京地裁の第一審で反戦・国体変革・不敬罪により懲役12年(求刑無期)の判決言渡し、控訴。静栄は懲役5年(求刑6年)言渡し、控訴。赤松今朝松、懲5、控訴。勝田義雄、懲3、控。山田春一、懲2、控。岩崎喜一懲2、控。齋藤光、懲3、控。奥村豹太郎、懲3、控。長縄由三、懲4、控。太田幾松、懲2、猶4、服。下條敏範、懲2、猶2、服。中丸万吉、懲2、猶5、服。西野忠柳、懲2、猶4、服。明石力、懲2、猶 5、服。赤松美哉子、懲2、猶4、服。千川初子、懲2、猶2、服。上田丈吉、懲2、猶2、服。角田タネ、懲2、猶2、服。山田タネ、懲2、猶2、服。隅田好枝は一審で懲役3年の判決。その後、控訴中に肺結核が悪化し板橋の病院に入院し絶対安静、療養生活。玉應連、懲4、控訴せず豊多摩刑務所に服役。その後、発狂-獄死。崔容源、懲5の判決後、宮城刑務所に服役。(以上は警視庁取り扱い。転向者は執行猶予付き) |
日本軍、ビルマ(ミャンマー)全土を掌握 |
||||
6月5日 | ミッドウェー海戦 | |||||
6月26日 |
日本聖教会、きよめ教会、東洋宣教会所属牧師96人が治安維持法違反で検挙 |
|||||
7月頃 | 出井尤祐、台湾で釈放 | |||||
8月 | 出井 みよ、台湾で釈放 | |||||
8月7日 | 葉フミイ(32歳)送局。起訴(予審請求)後、栃木刑務所の独房に敗戦まで拘禁 | アメリカ軍、ガダルカナル島に上陸 | ||||
8月8日 | 第一次ソロモン海戦 | |||||
8月26日 | 熊本特高課で検挙された村本一生、田邊とみ、寺井幹彦、検事局に送局 | |||||
8月31日 | 寺井鉄之助、保釈 | |||||
9月 | 朝鮮の朴玉姫、四度目の逮捕。投獄されたほかの女性信者らと共に京城(現ソウル)の西大門(ソデムン)刑務所に最終的に収監 | |||||
9月1日 | 大東亜省設置が決定 | |||||
9月15日 | 寺井鉄之助、灯台社教理廃棄の理由と心境を記す手記を兵庫県特高課に提出 | |||||
9月22日 | 寺井幹彦、獄死 | |||||
9月26日 | 熊本特高課で検挙された相川忠蔵、検事局に送局 | |||||
10月11日 | 井上幸四郎、静岡において送局 | |||||
10月23日 | 井上幸四郎、同日付で起訴猶予処分 | 連合軍、エル=アラメインで反攻開始 | ||||
11月2日 | 大阪:岸田只七、懲5、即日控訴。赤坂シズエ、岸田かめよ、角田常次郎、懲2、猶3、服罪。松田重信、懲1年6か月、猶2、服。 | |||||
11月8日 | 米英連合軍、北アフリカで上陸作戦開始 | |||||
11月10日 | 葉 フミイ、同日付起訴 | |||||
11月20日 | ソ連軍、スターリングラードで反攻開始 | |||||
11月26日 | 村本一生、田邊とみ、相川忠蔵、起訴 | |||||
12月ごろ | フィリピン、マンガボン(Mangabon)で活動中の信者、レオデガリオ・バルレイアン、ベルナーベ・バルレイアン、ナティビダド・サントス(Leodegario Barlaan, Barlaan, Natividad Santos)らはフィリピン人ゲリラに日本側スパイの嫌疑で連行される。その後、タボナン(Tabonan)のゲリラ本部に連行。虐待され、重労働の刑を受ける |
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12月28日 | 上運天先文、沖縄で懲2、猶4、服罪 | |||||
1943 | 18 | |||||
同年、フランス領インドシナのサイゴン市(現在のベトナム・ホーチミン市)で活動中のオーストラリア人信者、フランク・ライス(Frank Rice)は、日本軍兵士に捕まり、同国から退出 |
田辺とみ(田邊とみ子?)は懲役3年の判決。村本一生は求刑どおり懲役5年の判決-熊本刑務所に下獄 | |||||
1月19日 | 非転向組に対する控訴審、第一回公判 | |||||
1月30日 | 非転向組控訴審、第3回公判。この際、明石順三は「私は真のクリスチャンに恥じざる行動をとつて来た、然し今や燈台社に科せられたる地上任務は終了したから運動は今後中止す」と言明。その意図は知られていない。(節を曲げたというよりも、独自の聖書の理解に基づき、宣伝活動の時代は終了したと言いたかったのかもしれない) | |||||
1月31日 | スターリングラードのドイツ軍降伏 | |||||
2月1日 | 日本軍、ガダルカナル島撤退開始 | |||||
3月3日 | 村本一生、懲役5年の判決言渡し。田邊とみ、懲3。相川忠蔵、懲2、猶3。 | |||||
4月6日 |
毎日新聞検閲部は戦時情報局の指導に基づき、同日付で『近く行わるべき[灯台社等]に対する結社禁止及び教会の設立認可取り消し処分並びにこれに関連する記事は一切これを新聞紙に掲載せざるよう』との内部通牒を出す。他のキリスト教派に余分の心配をさせぬようにという理由らしい |
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4月13日 | 明石夫妻にのみ第二審。東京控訴院で順三は懲役10年(求刑10年)、静栄は3年6か月(求刑6年)の判決。その後、上告。静栄はこの時までに既に肺結核や神経痛になり、看守二人に抱えてもらわないと立っていられない状態だった | |||||
4月14日 | 明石夫妻、共に上告 | |||||
4月18日 | 連合艦隊司令長官山本五十六戦死 | |||||
4月23日 | 葉 フミイ、予審終結して新潟地方裁判所の公判に付せられる | |||||
5月12日 | ドイツ軍、北アフリカで降伏 | |||||
5月29日 | アッツ島の日本軍玉砕 | |||||
6月12日 | 勝田義雄、懲5、猶3。山田春一、懲2、猶3。岩崎喜一、懲2、猶2。斎藤光、懲2、猶3。赤松今朝松、懲2、猶4。奥村豹太郎、懲2、猶3。長縄由三、懲2、猶4 | |||||
6月16日 | 岸田只七、第2審、懲3、確定 | |||||
7月 | フィリピン・ゲリラにより、タボナン(Tabonan)等に監禁されていたレオデガリオ・バルレイアン、ベルナーベ・バルレイアン、ナティビダド・サントス(Leodegario Barlaan, Barlaan, Natividad Santos)らは同月付の釈放書を受け取る |
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7月10日 | 連合軍、シチリア島に上陸 | |||||
7月22日 | 葉フミイ、新潟地方裁判所において懲役2年6か月(未決勾留300日通算)の判決 | |||||
8月28日 | 沖縄県の当山弘は『黄金時代』誌を所持中に那覇警察署員に不審尋問を受ける。当人は興味を持たなくも、知人の昌謙から閲読を勧められたことが判明 | |||||
8月25日 | 当山昌謙(28歳)、沖縄県特高課が検挙 | |||||
9月8日 | イタリア、無条件降伏 | |||||
9月14日 | 明石夫妻は上告棄却。順三は巣鴨拘置所に服役 | |||||
10月2日 | 学生・生徒の徴兵猶予全面停止 | |||||
11月5日 | 大東亜会議の開催 | |||||
11月22日 | カイロ宣言 | |||||
11月末 | 明石順三は仙台の宮城刑務所に移送。その後、多くの暴力を受ける。所内では崔容源とも顔を合わせる。共産党関係者の市川正一、春日庄次郎、竹中恒三郎らとも一緒。彼らのはからいで聖書を入手 | |||||
12月1日 | 学徒出陣 | |||||
1944 | 19 | |||||
フィリピンでは同年中、日本軍とフィリピン・ゲリラの戦闘が激化し、多数の地元信者が殺害されている ジャヴィア・パユヤ(Javier Pauya)はゲリラの拷問で病気になり、死亡。アグサン県ナシピト(Nasipit, Agusan)のサンティアゴ・サクロと妻のドミンガ(Santiago Sacro & Dominga)は日本人に殺害され、家もろとも焼かれた。イシドロ・モンタ(Isidro Monta)は人間を刺す赤アリがうようよする木に一晩中縛り付けられて棄教を迫られたが、一命を取り留めた。ある信者らは、ゲリラ軍のために弾丸を運ぶことを拒否し、裸にされ、ひどく殴打されたということである |
田辺とみ(田邊とみ子?)が栃木県の女子刑務所で獄死 |
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1月9日 | 東部戦線でソ連軍の攻撃開始 | |||||
1月18日 | 緊急国民勤労動員方策要綱決定 | |||||
3月8日 | 日本軍、インパール作戦開始 | |||||
4月1日-8月 | 朝鮮で、日本軍のための第一回徴兵検査が施行 | |||||
4月22日 | アメリカ軍、ニューギニアに上陸 | |||||
6月6日 | 連合軍、ノルマンディー上陸開始 | |||||
6月8日 | 明石静栄が栃木の女子刑務所で獄死(58歳)。その後、順三は宮城刑務所の独房で知らせを聞く | |||||
6月5日 | アメリカ軍、サイパン島に上陸開始 | |||||
6月19日 | マリアナ沖海戦 | |||||
7月4日 | インパール作戦失敗中止 | |||||
7月7日 | サイパン島日本軍守備隊玉砕 | |||||
7月18日 | 東条内閣総辞職 | |||||
8月24日 | 連合軍、パリ入城 | |||||
10月20日 | アメリカ軍、レイテ島に上陸 | |||||
10月24日 | レイテ沖海戦 | |||||
11月24日 | 東京を、マリアナ基地のB29が初めて空襲 | |||||
12月 | 村本一生は“非国民”を理由に看守らに水びたしにさせられ拷問 | |||||
終わり頃 | フィリピンアブラ県ブケイ(Bucay, Abra)の信者、イサベロ・タエザ(Isabelo Taeza)ら14人は日本軍により逮捕・投獄。三日間の殴打と絶食と殴打の後、市長の仲介で釈放 同人らは後日、対立するフィリピン人ゲリラに逮捕されるが、この度も解放される |
石井マツエ、出獄 |
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●1945 | 20 | |||||
この頃、大江 頼一、銃殺 | ||||||
初め頃 | 明石順三は、共産主義者の竹中恒三郎から「敗戦も時間の問題」と知らされる | |||||
3月13日 | フィリピン支部の監督ジョセフ・ドス・サントス(Joseph Dos Santos)はアメリカ軍の治療を受けた後、この日、マニラのSanto Tomas Universityの収容所から解放される。入所時61キロあった体重は36キロになっていたという |
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3月29日 | 当山昌謙を含む沖縄刑務所の受刑者らは通称西森にある自然の壕で生活することになる | |||||
4月1日 | 米軍、沖縄本島中部西海岸に上陸 | |||||
4月2日 | 葉フミイ、刑期満了となる | |||||
4月3日-4日 | 当山昌謙ともう一人の受刑者は、別の壕へ取り調べのため往復するがその際、攻撃を受ける | |||||
4月10日 | 葉フミイ、信条に変化なしと認められ、終戦まで予防拘禁に付される | |||||
5月 | 村本一生は熊本刑務所で空襲に遭うが生き延びる。後、福岡の刑務所に移送 | |||||
6月19日 | ひめゆり部隊の一部が伊原の壕内で自決 | |||||
6月23日 | 沖縄守備軍の牛島司令官自決。沖縄刑務所受刑者31名中、12名死亡。7名生存確認。12名は生死不明であった | |||||
8月6日 | 三浦勝夫が収監されていた広島刑務所は原爆で倒壊するが、三浦は生き延びる 石井治三はきのこ雲の写真を撮影している |
広島に原爆投下 | ||||
8月9日 | 長崎に原爆投下 | |||||
8月15日 | 終戦 | |||||
8月16日 | 朝鮮の張順玉、他のメンバーは清州(チョンジュ)の保護拘置所から釈放 | |||||
8月18日頃 | 村本一生は刑務所内で敗戦を確認 | |||||
明石光雄は敗戦のため除隊 | ||||||
敗戦後 |
三浦忠治は敗戦で英軍の捕虜となる タイで活動していたオーストラリア人信者、ジョージ・パウエル、ジョン・エドワード・シューエル(George Powell, John Edward Sewell)は釈放 |
台湾では、大戦後も引続きWatch Towerへの反対活動が続く | 台湾に対する統治権が日本から中華民国に | |||
明石順三は終戦の数日後に敗戦の知らせを受ける | ||||||
9月 | (村田芳助はそれまで連日の拷問を受けていたため、9月に出所したものの、1か月後、衰弱栄養失調で死去。52歳) | |||||
10月4日 | GHQ、「民権自由に関する指令」を発表。政治犯、宗教思想を含む思想犯の一斉釈放の前提となる | |||||
10月5日 | 前日のGHQの指令に対し、東久迩宮内閣が総辞職 | |||||
10月9日 |
明石順三は進駐軍命令により釈放。村田宅に身を寄せる。明石光雄と若宮忠三郎は、村田宅で順三と再会し、そのまま村田宅にとどまる。 |
幣原喜重郎内閣が誕生 | ||||
秋 | 隅田好枝(1942年から入院中)は検事免訴となる。その後も引き続き療養生活 | |||||
12月 |
明石順三と明石光雄、村田芳助の次女、律子、若宮忠三郎は、東京・京王線の蘆花公園近くの若宮宅に移り住む。途上、順三と光雄は鹿沼の太田鶴子の所に立ち寄る。灯台社員との連絡を取り始める。 三浦勝夫は石森に戻る |
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1946 | 21 | |||||
1月4日 | ポツダム宣言第十項に基づく公職追放に関する勅令が出される。灯台社事件を含む重要思想刑事事件の処理で主要な役割を負った特高警察の警部以上の人たちが、公職から追放されることになる。(後に、一部追放解除) | |||||
8月1日 | アメリカ占領軍政策の一環として、終戦から同日までにカトリック宣教師64人、プロテスタント系宣教師46人が新たに入国している | |||||
8月22日 | Watchtower Societyは同日付で明石順三を日本の正式代表として再度認証 | |||||
秋 | Watch Tower Societyの文書伝道者が日本を訪ね、戦中、援助物資、戦後の文書類を引き渡す。が、受け取った順三は失望とも怒りともつかぬ気持ちを感じる | |||||
1947 | 22 | |||||
この頃、Watch Tower本部から、明石順三に対し、再度日本支部長として復帰するよう要請があり、モーレル氏、カーソン氏の来訪がある。支部長就任の条件として、本部からの600ドルの預金受入要請。他に、衣料、食品の支援物資が届けられる |
台湾で反対活動を啓蒙する警官を、グループ側が訴えたため、同警官が有罪判決になる。その後、大赦。 |
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1月23日 | 朝日新聞同日付に、明石静栄の記事が「八年前に敗戦を予言、獄死女囚の判決文現わる」という題で載る | |||||
4月6日 | 灯台社主催のメモリアル(キリストの死)式典開催 | |||||
7月15日 |
明石順三は機関紙「光』の同日付号外3号にWatch Tower Societyへの公開状を掲載 この頃までに、灯台社の活動に賛同する人は二百余名に達したということである |
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8月25日 | 明石順三は同日付で『光』に掲載した公開状をWatch TowerSocietyのノアに送付 | |||||
9月16日 | ノア会長、明石順三宛の返信作成 | |||||
10月12日 | 明石順三は、モーレル氏を通じて、ノアからの手紙を受け取る。明石は牧師会から「牧師会の会員中より除名」。その後、村本一生、隅田好枝らも灯台社の活動をやめる。村本は後、鹿沼市内の教員寮の管理者となって過ごす | |||||
戦後 | ||||||
明石順三は静子夫人と再婚。栃木県西鹿沼で読書や執筆などの活動。聖書の解明も継続したが、仏典研究も進め、一層普遍的な宗教上の真理を追究したようである。『浄土真宗門』(本願寺の体制や浄土真宗の本質を題材とした新聞小説形式の著作)、『彼』(二千枚を越える三部作。創造篇、智恵篇、権力篇)、『道』(宗教小説)、『運命三世相』(戯曲)などの著作を残したが世に発表しなかった 石井マツエによれば灯台社員はその後、少数の人が明石に従い、他は散り散りになり、10人ぐらいが信者として活動を継続または再開したという |
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1948 | 23 | |||||
1月 | 米国Watch Tower Societyで、日本に行くための宣教者のトレーニングが始まる | |||||
4月 | スタンレー・ジョーンズ、台北到着。台東への途上、出井夫妻と面会。後、台東のメンバーと接触し、グループはWatch Towerの管轄下に戻る | |||||
8月 | 崔容源は朝鮮半島に帰国していたが、米軍の『STARS AND STRIPES』紙で米国のWatch Tower Societyが活動を継続していることを知り、手紙を書く 台湾には、66人のメンバー |
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12月31日 |
Watch Tower Society派遣の宣教者、ドナルド・ハズレット(Donald Haslett)が来日 |
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1949 | 24 | |||||
1915年頃に朝鮮を周期的に訪れて宣教活動を展開していたイギリス人信者、ファニー・L・マッケンジー(91歳)は、当時の活動記録を韓国に渡る前のドン・スティールに渡す | この年、Watch Tower Societyの宣教者の本格的な派遣開始 | |||||
1月 | ドナルド・ハズレットと元灯台社事務所メンバーらが会合する。2回の会合を開くも、12人中10人は物別れに終わる | |||||
2月 | 東京・三田に事務所再設置。集会活動が開始される | |||||
3月11日 | 「灯台社事件の弾圧と虐待顛末報告書」(国会図書館調査立法考査局の戦時下宗教圧迫についての調査依頼に明石順三が回答した手記)の発行 | |||||
6月24日 |
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韓国で、戦後初めてのWatch Towerに登録された聖書研究グループが発足。以後、韓国の活動はWatch Towerの管轄下に入る。メンバーは12人 | ||||
8月9日 | 韓国にWatch Towerからの最初の宣教者、ドン・スティール、アーリーン・スティール夫妻が到着 | |||||
12月31日-1950年1月1日 | 神戸の宣教者の宿舎で戦後最初の信者による大会が開かれる | |||||
1950 | 25 | |||||
6月25日 | 朝鮮戦争勃発 | |||||
1951 | 26 | |||||
宗教法人法制定 | ||||||
5月1日 |
同日付で機関紙The WATCH TOWERの日本語版が『ザ・ワッチタワー』の名称で復刊 |
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1951-1952頃 | 26-27頃 | |||||
この頃、ハワイで活動していた花岡亀一が日本に移住 | ||||||
1952 | 27 | |||||
4月28日 | サンフランシスコ平和条約発効。これにより公職追放に関する勅令は廃止 | |||||
1955 | 30 | |||||
三浦忠治は復員後、香川で農業塩業をしていたが同年死去 | ||||||
1957 | 32 | |||||
3月24日 | 三浦勝夫、死去 | |||||
1960 | 35 | |||||
明石順三、『同獄記』を作成 | ||||||
11月18日 | 神田繁太郎死去、78歳 | |||||
1962 | 37 | |||||
2月 | 明石順三、「四百年の謎」(カトリックの本質を究明しようとしたイエズス会研究の論稿)と題する記事を、雑誌『高志人』(こしびと)に連載開始。主催編集者は在米時代の友人、翁 久允 | |||||
1963 | 38 | |||||
8月27日 | 神田モード死去、78歳 | |||||
1965 | 40 | |||||
7月 | 明石順三は「四百年の謎」の中で、日本の再軍備、兵器製造に言及 | |||||
11月14日 | 明石順三、喘息の発作のため死去。(76歳?)「四百年の謎」は45回で中断。晩年は翁 久允や長沼重隆との交友 | |||||
1966 | 41 | |||||
2月20日 | ドナルド・ハズレット、死去 | |||||
1968 | 43 | |||||
『戦時下抵抗の研究』Ⅰ(みすず書房)に「灯台社の信仰と抵抗の姿勢-明石順三と『黄金時代』」が掲載。明石順三が広く知られる | ||||||
1970 | 45 | |||||
6月 | 明石好枝(隅田)はこの頃まで鹿沼の病院で療養生活を余儀なくされたが、この月退院となる(戦後明石家の養女となった) | |||||
9月末 | 作家の稲垣真美、村本一生に面会 | |||||
1971 | 46 | |||||
4月22日 | 花岡亀一、死去。82歳 | |||||
5月18日 |
村本一生、「私の昭和史」(東京12チャンネル)に番組出演。インタビューで、「灯台社はその目的を達成しました。ですから、もはや存在しません」と語ったと言われる |
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1972 | 47 | |||||
『兵役を拒否した日本人-灯台社の戦時下抵抗』(稲垣真美、岩波新書)が発刊 | ||||||
6月 | 石井治三、死去 | |||||
1973 | 48 | |||||
明石順三の最初の妻、小河内須磨子(明石須磨子)が日本でのエホバの証人の大会に出席のため来日 | ||||||
1980 | 55 | |||||
小河内須磨子(明石須磨子)、日本へ帰国し、真人と暮らす | ||||||
10月28日 |
R・ロバート・ハリスター、オハイオ州モンローで死去(96歳) |
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1982 | 57 | 小河内須磨子(明石須磨子)、日本で死去(90歳) | ||||
1985 | 60 | |||||
1月 | 村本一生、鹿沼で死去(71歳)。晩年は寄宿舎の寮長として過ごした |